こうして人様のサイトにスロット記事…もとい、スロットも含めた日常系記事を寄稿させていただくなんていつ振りだろうと小一時間。
それは遡ること10年ほど前になるだろうか。俺は当時アメブロでブログを書いていたわけだが、そこでのオフ会から交友関係を持つようになった方の紹介もあって、某スロットパチンコ関係のポータルサイトにブログを投稿させていただいていたことがある。
もちろんそれは無償ではあるが、記事の内容ひとつで自分というブランド力を高めることができるなら、認知度を飛躍的に向上させることができるならと、数回投稿させていただいた。
しかし、当時専業として活動していた俺が、シンデレラストーリーのように営業会社へ就職し支社長まで上り詰めた頃には稼働ネタが激減。更新頻度は落ち、気が付けばその頃には投稿する権利さえ失ってしまっていた。 あれから10年ほどの月日が流れて、今こうしてまた人様のサイトへの投稿を志願し、自分を知ってもらう活動ができたらなぁと思い筆を執った次第である。
こんにちは。倒産じぃじです。ツイッターでは『じぃじ』と呼んでいただくことの多い現在33歳。
少しの間は自己紹介もかねて、簡単な生い立ちをさらにギュッと凝縮し、かいつまんで話していこうと思う。
倒産じぃじの生い立ち
広島生まれの広島育ち。
高校卒業後にはデザイン専門学校へ進学し、今でも親交の深い同級生たちと同じように建築業界で生きていく将来を夢見ていた。
が、そんな将来の夢は秒で崩れ去るほど自分のセンスのなさが浮き彫りになり、それを埋める為の労力を注ぐ程の魅力や興味を感じていなかった。
気が付けば学校帰りに駅前のパチンコ店に入り浸る日々。
課題を学校でやり終えた同級生と合流して焼き鳥屋を経由して帰路に就く。
そんな毎日を過ごしているうちに、すっかりと同級生たちとのレベル差は埋められるものではないほどまでに広がってしまっていた。
『あー、毎日スロットを打っていたいなぁ。これで生きていけないかなぁ。』気が付けばそんなことばかり考えるようになっていた俺は、次第に放課後のみならず、体調不良で早退してはパチンコ屋へ足を運んでいた。
スロットで勝つこと以外への興味はだんだんと失われていき、卒業するにあたって必須となる資格試験も不合格となるまでになっていた。
その資格試験の補習を夏休みにさせられたわけだが、案の定出席率は低かった。
しかし、合格しないと卒業できないのは困ると、パチンコ屋の営業時間外を有効活用して勉強し、パチンコ屋の営業時間にはしっかりとスロットを打っていた。
パチンコ屋に内定・就職へ
気が付けば地元のパチンコ屋に内定を決めていた。
もう建築デザインのことなんてどうだってよかった。
ここまでの短い文章を読んでくださっただけでもご理解いただけたと思う。
そう。自他ともに認める”生粋のクズ”が完成していた。
そんな参加しなかった夏休みの補習ですら、出席しろと言われること自体がめんどうになり、学校の制度の一つでもある『早期就職制度』を利用することと決めた。
この制度は、内定が決まった生徒は、企業の依頼があれば、企業への早期出社を学校の単位へ置き換えることができるというもの。
既に内定通知を受けていた俺がこの制度を使わない手はない。
そう思った。そこで俺は絵を描いた。
まず、就職予定先のパチンコ屋の人事には『卒業までに少しでもスタッフとしての経験を積んでおきたい』と伝えた。
すると快く快諾してくれた。そりゃそうだ。バイト募集を行ってる店舗にアルバイトをしに行くだけのこと。ましてや内定者が。
採用担当者がそんな熱意をもった内定者のバイト志願を断るわけがない。
そして話がまとまったところで専門学校に『すいません、内定先のパチンコ店が、未経験ということなら少しでも早めに経験してとおっしゃられるので、そっちに出勤します。
学校の欠席日を全て単位に変えてください』と伝えて制度の利用が確定。
正直本来ならこんな安易なものではないのだが、先生方も学校の就職内定率を俺ごときで下げるわけにはいかなかったこともあるだろうし、俺にもう一年在籍されても、他の生徒の士気が下がるくらいに思ってたことだろう。
想像以上に簡単に事が運んだことを今でも覚えている。
そうしてぬけぬけと学業の時間にパチンコ屋でバイトをし、バイト終わりにはその店のスタッフとスロットを打ちに行くという、当時の俺からしてみれば夢のような毎日だった。
今こうして振り返りながら書くだけでも依存というものの怖さを思い知るな…うんうん。
さて、そうして夢のような毎日を過ごしているうちに時は流れ卒業、就職。就職後はあまりのスロット好きが高じて、『スロット担当者として、設定を任せるつもりだから頑張れよ』と、当時の店長からありがたいお言葉も頂いた。
スロット好きの人たちには共感してもらえると思うのだが、スロット好きからしたらこんな嬉しくわくわくできる事他にはない!ってくらいに舞い上がった。
そして、配属から約一年の月日が流れた時には、俺は大阪で”専業”となっていた。
パチンコ屋社員としての在籍は一年五か月で幕を閉じ、広島で始めた専業の真似事が行き過ぎて、大阪の友人宅を寝床に毎日大阪のホールへ通う生活を送っていた。
生粋のクズ、ここに極まる。
学生時代からクズを形成し、社会にでてからもクズと化し、今現在なおクズである。
継続は力なりというが、クズを継続し続けている俺は、もしかしたらとんでもない力の持ち主なんじゃないかと、気持ちの良い勘違いをしそうになったところで、眠気が来たので明日に備えて床に就くことにしようと思う。
つづく。